小学2年生の息子に、最近、音読の宿題が出ない。
音読は何年か続くだろうと予想していたし、少なくとも現4年生にはまだ出ているので、半月ほど前、ちょっと気になって息子に聞いてみた。
すると、息子は、あっけらかんとこう答えたのである。「ああ、それはね、わざわざ宿題だって言わなくても、みんなやってくるからだと思うよ」
ええ!
「みんなやってきてるの? なのに、やらないの?」うろたえる私に、息子、キッパリと言う。
「そうだよ! だって、宿題じゃないんだから、やってもやらなくてもいいんだよ。だからおれはやらない」
迷うことのないその笑顔に、私はぐうの音も出なかった。
夜、夫にこの話をする。
息子の言う通りなんだけど、全く誰に似たんだか(当然私じゃありませんよ)、という思いのたけをこめた話だったのに、爆笑した夫はこう言い放ったのである。
「真生の子だよ!」
えええ!
むしろ私はまじめで、そういう状況なら間違いなく音読する派(事実です)。
当然夫のことばは全否定だけれど、でも、心のどこかに言い当てられた感があった。
確かに私は、しなくていいことは、しない方。みんながしていることでも、まあいいかと思えば、しない。まじめだけれど、とてもめんどうくさがりなのです。
「私なら音読した」と思えるのも、それはあくまですることに抵抗のない音読だからで、それがたとえば縄跳びであれば、きっとしなかったはず。
息子にとって音読は、宿題の中では嫌いな方ではないけれど、したいものではない。致命的にできなくて困っているわけでもない。そうであれば、今したいことがしたいのだろう。
もちろん、それは、誰に似たとかいう話ではなく、そういう考え方があるということだけれど。
そういうわけで、今も、息子に「音読しなさい!」とは言わないまま。音読を続けることで得られるものはあり、息子の弱点も軽減できる。それは説明したし、時々声をかけることもあるけれど、私の出番は、そこまでのようだ。
毎日の「宿題」を終わらせるだけで精一杯である上、なにより別のことで「今、楽しいよー!」と言わんばかりの姿に、かけることばが見つからないのだ。そして、「音読を続けることで……」、と知っているから、しつこくあーあと思ってしまう。
親子でも、似たような考え方をしても、進む方向は全く違うんだなあ。不思議なようで当たり前のことを、また思う。